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  日本の城に登る・歩く
    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  群馬県高崎市 ”箕輪城(16)” を訪れる
  
  
  
  

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上野国の豪族 長野業尚(ながのなりひさ)築城 ”箕輪城” を訪れる
 
  箕輪城
  (みのわじょう)
 (日本百名城:16)
 群馬県高崎市
 (撮影 2011.07.23)
 箕輪城(みのわじょう)は、群馬県高崎市箕郷町にある平山城跡で、国の史跡に指定されています。

 箕輪城は、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城であります。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していました。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものでした。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められます。  (ウィキペディアより)
(Size : 1,602KB) 
箕輪城、本丸跡を望む 箕輪城、搦手口(からめてぐち)の様子です
 
 
 箕輪城 ”搦手口” より登城する
 

 【箕輪城 搦手口(からめてぐち)】

 搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも「馬出し」があった。
 長野氏時代から北条市時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された伊井氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口となったといわれている。  
(現地案内石板より)

 
■ 箕輪城、搦手口跡を望む ■
 
 箕輪城、二の丸を望む 箕輪城、搦手口跡を望む
 
 箕輪城 ”二の丸” を望む
 
■ 二の丸の一部は駐車場として利用されています ■
  
二の丸からの眺望です 二の丸の案内石板です
 
 箕輪城 ”三の丸” を望む
   
■ 箕輪城、三の丸跡を望む ■
  
 
三の丸石垣を望む 三の丸門跡と石垣を望む
【三の丸跡と石垣】 (現地案内石版より)
 城中の石垣で、比較的よくのこっているのはここである。
 三の丸は二の丸の外にある郭(くるわ)である。
 入口の三の丸門には両側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。
  
  
 新曲輪にて(1) 新曲輪にて(2)   新曲輪にて(3) 道標です
  
  
 
 箕輪城 ”本丸跡” を望む
 
【箕輪城 本丸】

 箕輪城には天守閣はありませんでしたが、多数の「かわらけ」や楽茶碗などが発掘されていることから、城主の住む建物や軍議を開いたり酒宴を催したりする館(やかた)があったと推定されています。
 城主の交代を契機に城の造り替えが行われたことが発掘調査で確認されました。  
(現地案内板より)

 
■ 広大な草地、箕輪城本丸跡を望む■
 
本丸、北虎口近くの空堀です 箕輪城址の石碑 (■カーソルセットで写真がアップします)
 
 箕輪城 ”大堀切” を望む
  
■ 箕輪城、大堀切を望む ■
   
【大堀切と土橋】 (現地案内石板より)
 この大堀切によって城は南北に二つに区切られて中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。
 土橋の南には見事な郭馬出しが構えられて出撃の気勢を見せている。
   
御前曲輪にある井戸です 箕輪城、御前曲輪(ごぜんくるわ)を望む
【御前曲輪】 (現地案内版より:箕郷町教育委員会)
 御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。
 落城の際、長野業盛以下自刃した時仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和二年に発見されたものである。



【御前曲輪 井戸】 (現地案内版より:箕郷町教育委員会)
 昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで古井戸が確認されました。
 深さは20mで、底からは長野氏累代の墓石が多数掘り出されました。


 上野国 ”箕輪城男体山” 案内
  
【日本百名城 箕輪城】

 箕輪城は榛名山からのびる低い尾根の末端部を巧みに利用して造られています。標高274メートル、西は榛名白川の清流に望む約20メートルの断崖、南は椿名沼の沼地、なだらかな北東部は水堀で囲まれていました。現在の箕輪城跡は井伊直政在城当時のもので、長野氏時代のものとはかなり変わっています。  (高崎市HPより)


  
■ 搦手口から、榛名山を望む ■
 
■二の丸にあります、「箕輪城復元想像図」です ■
   
箕輪城、白川口埋門跡を望む 箕輪城、郭馬出を望む
 
 箕輪城、搦手口側の駐車場です 昭和年2年に発見された井戸です  木俣(通路が二俣、三俣のように五つの方向にわかれるところ) 御膳曲輪にある芭蕉の句碑
(夏草や兵どもが夢の跡)
 
  
  
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
  
           
後   記   
 現在の箕輪城は、都市化が進み自然の要害がどんなものであったのか街並みからは想像することができませんでした。単純に眺めれば自然の要害を利用した城とはとても思えませんでした。

 戦国時代には、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されましたが、これを撃退していました。1566年(永禄9年)武田軍の総攻撃より落城し長野家の時代は終わったとのことです。

 その後、箕輪城は徳川家康より、12万石で井伊直政に与えられました。直政は箕輪城を近代城郭に改造しましたが、1598年(慶長3年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打ったとのことです。

 1598年の廃城から400年以上経過した城は、全体的に丸みを帯び穏やかな城址となって現在にその姿を留めていました。芭蕉の句碑がなんとも哀愁をただよわせておりました。 
(2013/3/11)

 
 
■ 箕輪城、御前曲輪西石垣です ■
 


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