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 日本の城に登る・歩く
    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  山口県萩市 ”萩城(75)” を訪れる (1)
  
  
  
  
  
  
  
  
 毛利輝元の城 ”萩城” に登城する
 
 萩城 (はぎじょう)
 日本百名城 No.75
 山口県萩市
 (撮影 2013.04.28)
 萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城です。別名・指月城(しづきじょう)とも呼ばれています。
 萩城は指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されています。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点でしたが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により、櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存しています。

 現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっています。   (ウィキペディアより)   
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萩城(指月山)を望む 萩城、天守台を望む
 


  ”萩城” 登城する
 

 【萩城の築城(1)】

 萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万uの境内が指月公園として整備されました。城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守閣跡、花江茶亭、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があり、また、春には県の天然記念物に指定されているミドリヨシノを始め、600本余りのソメイヨシノが咲き誇ります。  
(萩市HPより)

 
■ 「史跡 萩城址」碑。極楽橋を渡る。正面は指月公園入場券売り場になっています。 ■
  
”毛利輝元公像”を望む ”毛利輝元公像”から内堀へ進む
 


  萩城 ”内堀と天守台” を望む
 
■ 極楽橋より、内堀を望む。正面奥は天守台です。 ■
  
萩城、”内堀”を望む 萩城、”極楽橋”を望む
 


  萩城 ”天守台” を望む
 
■ 萩城、”天守台”を望む ■
  
萩城、内堀(天守台、極楽橋)を望む 萩城、”天守台”からの風景
萩城、往年の姿です。現地案内板からの複写です  
 


  萩城 ”天守閣跡” にて
 

 【萩城の築城(2)】

 萩城は三角州に築城されたため、三方を海に囲まれています。日本海に張り出した指月山山頂の詰丸(要害とも呼ばれる)と、その山麓に梯郭式(曲輪#縄張と主要な曲輪を参照)に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城でありました。吉田郡山城などの中世山城に見られる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城理念が最もよく示されているとされています。厳密には、山頂の詰丸も本丸と二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城ではなく平城と山城であるとする見解があります。また、海に突出しているため、海城であるという見方もあります。  
(ウィキペディアより))

 
■ 萩城、天守閣跡の様子です ■
  
萩城、”天守閣跡”への入口(階段)です 萩城、石垣の上の様子です
  
”史跡 萩城跡”碑を望む 萩城、入場券売り場です ”毛利輝元公像”を望む ”天守台”を望む
 


  城内にある ”志都岐山神社” に参拝
 
■ "志都岐山神社"を望む.。(毛利元就等を主神とし、明治12年、山口にある豊栄、野田両神社の分社として有志が建てたものとのことです) ■
  
  梨羽家茶室(煤払いの茶室)、城内煤払いの際に、藩主が城を出てここで休憩したことから、この別名が付いています。   万歳橋と志都岐山神社。万歳橋は、藩校明倫館の孔子廟の池に架かっていたものを移築したものとのことです。
  
 


  山口県萩市 ”萩城” 案内
 
【日本百名城 萩城】

 【 萩城跡 指月公園案内図  −現地案内版より− 】

 関ヶ原の合戦の敗北で、西軍の総大将であった毛利輝元は、長門・周防2国に移封されました。輝元は1604年(慶長9年)日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、阿武川河口の三角州を整地しました。萩城は標高143m指月山の山麓には本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれます。城郭の構造は指月山麓の平城の部分と山頂の山城の部分を合わせた平山城の形式で、山麓には本丸・二の丸・三の丸を備えていました。本丸は東西百十間、南北八十間、その南北には内堀を掘りめぐらし、高さ六間の石垣を築いて五層の天守閣がそびえ、内部には藩主の居館や政庁などが立ち並んでいました。内堀に接してその外に二の丸があり、さらに中堀を挟んで広大な三の丸が城下町と外堀を隔ててつくられていました。城址(国史跡)は指月公園となり、壮大な本丸の石垣や天守閣跡が往時を偲ばせます。
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■ 指月山を取り囲む石垣を望む。左側は二の丸東側の潮入門跡と銃眼土塀です。 ■
  
海側より、二の丸東側の銃眼土塀を望む。右側は潮入門跡です。 海側より、指月山尖端の石垣を望む
  
二の丸東側の銃眼土塀と潮入門跡を望む  
  
  
”天守台”を望む 大きな”萩焼”が展示されていました 指月公園入口にて
”萩資料館”を望む
 
  
 
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
 
           
後   記   
 萩城は海に浮かぶお城のイメージでした。実際に海に張り出した指月山そのものが城となっており、この地を城としようとしたことはすごいことと思いました。
 天守閣は、明治の廃城令で取り壊されたとのことですが、現地案内板には取り壊し前の写真(上部掲載写真参照願います)が掲示されていました。現在残されている石垣と当時の写真を見比べて、内堀と天守閣の美しさは見事な威厳を持った城であったことが良く理解できました。

 今回は指月山山頂部にあります萩城詰丸跡まで登りました。次回は紅葉の時期にハイクを楽しみながら訪れてみたいと思います。  
(2014/3/16)

 
 
 
 


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