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     日本の城に登る・城を歩く
 
 
No.1  徳川四天王、猛将・本多忠勝の城 ”大多喜城”     (千葉県:大多喜市)
 

 大多喜城(おおたきじょう)は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城です。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれ、江戸時代には大多喜藩が置かれていました。
 昭和50年(1975年)に城跡に天保6年の図面を基に、復元天守が再建され、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置されました。
(ウィキペディアより) 

  
 

 
No.2  城郭形式で博物館として復元された ”大多喜城”     
 
 天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収され、同国は徳川家康に与えられた。そしてその配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は安房の里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。 (ウィキペディアより)
 
  
  
 
 忠勝の築いた大多喜城は、ドン・ロドリゴの見聞録によると堅塁を誇り、里見氏に対し無言の圧力をかけていたとのことである
  博物館への入口         



 
No.3  南方の脅威(里見氏)防衛の城 ”大多喜城” 
 
 大多喜城も今では、本丸跡に建設された天守閣づくりの歴史博物館(千葉県立中央博物館大多喜城分館)になっています。歴史の証人として大多喜市民を見守っている感じです。 
問屋門と桜雲橋
 



 
No.4  ”大多喜城”からの眺望
 

 大多喜城は1614(慶長19)年、里見氏が改易処分となり、南方の脅威は取り除かれるとともに、大多喜城の軍事的重要性は次第に薄れはじめていく。 そのためか、本多忠勝時代には10万石の領土が大多喜城には付されていたが、城主が代わるごとに禄高は減少、わずか2万石の小藩として明治維新を迎えたのであった(ウィキペディアより)

  
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 大多喜城からは、城下の町並みがはっきりとみわたすことができます。
             
 
 
 市内を望む    
 
 

 
No.5  市内からの”大多喜城”  
 
 

駐車場のお土産屋さん      駐車場 城址への入口
             大多喜城を望む   道の駅「たけうらの里おおたき」にて
 
 

 
No.6  ”大多喜城” の案内図  

 大多喜城は、本丸付近に土塁、大手門付近に堀跡が残る。また、二の丸に大井戸が残り、本丸跡および二の丸御殿薬医門と共に県の文化財に指定されている。建造物としては、大多喜高校に保存されている二の丸御殿薬医門が現存しており、千葉県の文化財指定を受けている。

Yahoo地図より       Yahoo地図より         案内版 拡大    
 
 
 

   この博物館は房総の中世から近世までの武器・武具や城郭、武家社会などに関する歴史 資料を展示紹介する専門館と総南地方の地域の文化財を紹介する地域博物館としての機能を持っています。
   また、歴史教室や講座を開催するほか、歴史資料の調査・研究・保管・展示を行い、 県民が身近に地域の歴史に触れ、生涯学習に寄与することを目指しています。
(千葉県立中央博物館大多喜城分館HPより)
 
 大多喜城は、天守が復元され、博物館として活用されています。城下町を見下ろすことができる高台に築城され、景観にすぐれており、立派な城と感じました。
 回りの山々には成長した杉の木がたくさんあり、花粉を降りそそいでいました。花粉症の方は時期を選んでお出かけした方が良いと思います。



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