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 日本の城に登る・歩く
    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  大分県竹田市 ”岡城(95)” を訪れる
  
  
  
  
  
  
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 大分県竹田市 ”岡城 (95)” に登る
 
 岡城 (おかじょう)
 日本百名城 No.95 
 大分県 竹田市
 (撮影 2011.05.02)
 岡城(おかじょう)は、現在の大分県竹田市大字竹田にあった山城です。「臥牛城(がぎゅうじょう)」「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれています。

  岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及ぶ広大な敷地となっています。   (ウィキペディアより)   
(Size :3,131KB) 
岡城の石垣群を望む) 荒城の月(滝廉太郎像)、岡城二の丸跡にて
 


  ”岡城” 登城する
 

 【岡城の築城(1)】

 岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝と仲違いをしていた弟 義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流されていた。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で、その城はきむれ(騎(木)牟礼)の城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。  
(竹田市教育委員会HPより)

 
■ 岡城、大手門への入口です ■
  
岡城、”登城口”です 岡城、”大手門跡”にて
 


  岡城 ”大手門” を望む
 
■ 岡城、”大手門跡”を望む ■
  
岡城、大手門〜三の丸にて 岡城、”大手門”付近の様子です
 


  岡城 ”二の丸・三の丸跡” にて
 
■ 岡城、貫木門跡付近(西中仕切)から、三の丸の石垣を望む ■
  
貫木門跡付近(西中仕切)から、三の丸の石垣を望む 岡城、”三の丸”の風景です
岡城、二の丸の風景です。左側は瀧廉太郎像です 
 


  岡城 ”本丸跡” にて
 

 【岡城の築城(2)】

 岡城は天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後 大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。

文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1663)には西の丸御殿がつくられ城の中心部分とされていった。

 岡城は山城的殿舎、平山城的殿舎(本丸二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。    
(竹田市教育委員会HPより)

 
■ 岡城、”本丸跡”を望む ■
岡城、本丸跡より祖母山(1,756m)を望む。(■カーソルセットで祖母山がアップします)
  
岡城、”本丸跡”を望む 岡城、本丸跡にて
  
”古大手門跡”を望む 岡城、三の丸、二の丸の石垣を望む ”貫木門跡”を望む。三の丸へと進む ”空井戸”を望む(深さ73mとのことです)


  岡城 ”西の丸” にて
 
■ 三の丸跡より、西の丸跡方面を望む。清水谷(手前)を挟んだ広い城内です ■
  岡城、三の丸より西の丸方面をズームアップする 岡城、近戸門跡〜西の丸間の石垣です
岡城、”家老屋敷跡”を望む 岡城、”近戸門跡”を望む
”東門跡”を望む ”西の丸御殿跡”を望む ”西の丸御殿”の石垣を望む ”家老屋敷跡”にて
  
 


  大分県竹田市 ”岡城” 案内
 
【日本百名城 岡城】

 【 岡城と荒城の月  −竹田市教育委員会文化財課HPより− 】

 岡城の現在残されている城郭は、明治に至るまで岡藩を統治した中川公によって築城されたもので、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの主な曲輪(くるわ)からなっている。
趣味人であった第5代藩主 中川久通は、城の北側にある絶壁に弦長約3m三日月を彫らせ、月のない夜も明かりを灯し、月見の宴を楽しんだ。

明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げで(明治7年「大分県布告書」で県内五城の建造物、岡城は69棟が入札に付されている。)すべてが取り壊された。

瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

現存する城跡は、文禄3年(1594)に播州三木から入部した中川氏により拡張されたものであり、明治4年の廃城により城館は取り壊され、「荒城の月」のイメージどおり、残された石垣が当時の姿をしのばせ、春の桜、秋の紅葉と四季折々の姿で訪れる人たちを楽しませている。


 
■ 駐車場より、岡城、近戸門跡方面を望む ■
  
岡城、近戸門跡方面のズームアップです ”岡藩城下町 400年祭”ののぼりが飾られていました
  
岡城、本丸跡にありました案内板から複製した写真です。■カーソルセットで岡城址の案内図が表示されます 
  
  
駐車超から登城口へ進む、大手門は崖の上です 駐車場にあります ”史跡岡城阯”です 入城券の”登城手形”です 三の丸から二の丸へ進む
 
  
 
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
 
 
           
後   記   
 岡城については、「荒城の月」のイメージがあり、相当荒廃した城と思っておりました。売店で入城券を購入すると、入場券の「登城手形」が渡されました。なかなかオシャレであり、観光客への気配りが感じられました。また大手門の上部からの眺望はこの城がいかに自然をうまく利用し要害化しているのがわかります。眼下には白滝川が流れ、急峻な山とガケに囲まれていました。

 岡城からは、くじゅう連山、阿蘇山、祖母山と九州の山々が見渡せるとのことでしたが、あいにくの曇り空のため、祖母山は見渡せましたが他の山は残念ながら見ることはできませんでした。
 また三の丸の吸いこまれそうな急峻な石垣は、どうやって造ったんだろうと考えてしまうぐらい素晴らしい石垣だと思いました。安全柵など無く、自然のままの状態になっていることも、すごく好感がもてました。

 岡城では、自然と石垣の美しさを堪能することができました。次回機会が有ったら紅葉の時期、ここで九州の山々を眺めてみたいと思いました。  
(2014/5/23)

 
岡城、”三の丸の石垣”を望む
 
 


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