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日本の歴史を訪ね歩く
  (日本の歴史・日本のふるさとを歩く)
[画像]  日本最古の学校 ”足利学校” に入学する
     
  
 
 栃木県足利市 ”足利学校” を訪れる
 足利学校
 (あしかががっこう)
 史跡  
 栃木県 足利市 
 (撮影 2012.05.12)
 足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関です。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府でありました。   (ウィキペディアより)
(Size: 1,269KB) 足利学校、入口(入徳門)を望む 足利学校、方丈を望む
 足利学校 ”孔子廟” を望む
【孔子廟】

 孔子廟は、儒学の祖の孔子をまつる廟で聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。
 大成殿は、寛文八年(1668)に建てられました。正面五間、側面六間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階(もこし)と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野タカムラ(おののたかむら)像、左に徳川家康の神位などを安置しています。
 杏壇門は、明治二十五年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて五年後に再建されました。
 この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈テン(せきてん)という儀式が毎年行われます。   
(現地 案内板より)

杏壇門より、”孔子廟 大成殿”を望む
杏壇門手前にある ”孔子像” を望む 孔子廟に安置されている ”孔子坐像(木造)です
           
 ”足利学校” に入学する
  
 【足利学校の創建】

 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。  
(足利市HPより)

 
足利学校 入場券売場の横にあります。
”学校門”を望む 写真上:足利学校入口 ”八徳門”の校内からの眺めです
   下:旧足利学校遺蹟図書館を望む
写真上:”八徳紋” を望む
   下:入場券売場の様子です
 足利学校 ”方丈” を望む(1)
”裏門”より、南庭園、”方丈”を望む
足利学校の入場券 ”足利学校入学証”です  足利学校 ”南庭園”を望む
 孔子廟に咲く ”黒蝋梅(くろろうばい)” を望む
黒蝋梅です。(黒蝋梅はアメリカ蝋梅とも称し、日本には明治中期に渡来したと伝えられています。(現地案内板より)) 
 
  足利学校社 ”方丈” を望む(2)
■ 足利学校 ”方丈” を望む ■
正面から ”方丈” を望む  ”方丈”の内部の様子です 
方丈より ”南庭園” を望む 須弥壇(しゅみだん)です 中央は孔子像です 書院を望む
 
  ”足利学校”  案内
【 足利学校の裏門】

 足利学校の門は、位置や名称が江戸時代に入って何回か変わっているようです。正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。主に、日常使う門がこの裏門でした。
 学校の裏に位置しないにもかかわらず、この門がなぜ裏門と呼ばれたか明らかではありません。間口八尺の築医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。(宝暦年間の姿に復原)     
(現地案内板より)

宝暦年間の姿に復原された ”裏門” を望む
足利学校入口の街並みの様子です ”商店街”の様子です
足利学校の堀です 弊足利学校、正面入口です  商店街にて   裏門と方丈を望む
Yahoo!地図より ■カーソルセットで航空写真の表示 ■カーソルセットで航空写真の表示
後  記

 足利学校については名前は知っていましたが歴史などほとんど知りませんでした。今回訪れて初めていろいろなこと(フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介など)を知ることができました。こういう人のため入場券が”足利学校入学証”になっているのかな思いました。
 孔子の教えを中心に学問が進められ、中国の各地にある孔子廟を含め、孔子の偉大さをあらためて感じさせられました。
地元では、足利学校を世界遺産登録の活動をしておりました。日本の学校の始まりであり、実現できれば日本の学問に対する姿勢を世界に広めることが出来ると思いました。   
(2012.08.19)
 


【扁額 「杏壇(きょうだん)】   天保14年(1843)  徳川治宝(はるとみ) 筆


 扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位大納言徳川治宝(和歌山藩十代藩主)の筆によるもので、天保十四年五月二十四日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治二十五年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門に有る扁額はこれをもとに複製されたものです。

 「杏壇」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をする所を意味するようになりました。   
(現地 説明文より)




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