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     日本の城に登る・城を歩く
   
 

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  小田原のシンボル ”小田原城”
 
 小田原おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にある、戦国時代から江戸時代にかけての平山城です。江戸時代には小田原藩の藩庁があり、城跡は国の史跡に指定されています。 ウィキペディアより
 
小田原駅より小田原城を望む
 
 
国の史跡指定
  1938年(昭和13年)8月8日、「小田原城跡」として国の史跡に指定されています。1959年(昭和34年)5月29日一部地域を追加指定した。史跡指定範囲は、小田原市城内・本町・栄町・浜町・城山・十字・谷津・南町におよんでいます。ウィキペディアより
  商店街からの小田原城
日本100名城に選定
 小田原城は、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(23番)に選定されています ウィキペディアより



歩道のレンガ(?)です
 
 

 総石垣造りの ”小田原城”
 
 
  
  
総石垣造りの城
 小田原城は、佐倉城や川越城などのように、土塁の城の多い関東地方において主要部の全てに石垣を用いた総石垣造りの城である。現在のような総石垣の城になったのは1632年(寛永9年)に始められた大改修後のことであります。 ウィキペディアより
 
常盤木門(ときわぎもん) 常盤木門(ときわぎもん) 常盤木門(ときわぎもん)
 
 
 

 ”小田原城” 天守からの眺望 
 
  
小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。 (ウィキペディアより)
  
  
天守より相模湾を望む
  
  
 
眼下の城内 箱根方面の案内板 天守より箱根山方面の眺望
   
  

 
 復元された ”銅門(あかがねもん)”
 
  
 銅門は、江戸時代の小田原城馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。仙明治3年(1970)の小田原廃城後、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。 往時は、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守閣へと進むようになっていました。
 銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。
  
  
銅門の機能性の美しさは実に見事です!
  
  
復元された銅門
 現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。平成10年4月1日より一般公開されています。
二の丸銅門の枡形と渡櫓門
  
 
  
  
 小田原市内より ”天守閣” を望む
 
  
  
小田原城の天守閣
 元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。
 現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。 
(小田原市公式サイトHPより)

 
 
 

 永久不変の繁栄の願い ”常盤木門”
 
  
 常盤木門は、本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていました。
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成しました。
 常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。
 ウィキペディアより
  
 
本丸城門の常盤木門と枡形   本丸東堀跡と二の丸から本丸への渡り橋
 
  
 

 ”小田原城”  案内
  
小田原駅より小田原城を望む (■Zoomで小田原城址案内の表示)
 
  小田原城の復元
 現在、小田原市では、城の中心部を江戸末期の姿に復元することを計画しており、天守の復興を手始めに1971年(昭和46年)には常磐木門(ときわぎもん)(外観復元)、1997年(平成9年)には銅門(あかがねもん)、2009年(平成21年)には馬出門を復元しました。 (小田原市公式サイトHPより)
  
  
堀に架かる”まなびばし” 小田原城址のビャクシン 銅門記念撮影サービス
  
  
Yahho!地図より ■Zoom(航空写真) ■Zoom(航空写真)
 
 
 
後 記
 出張の際、車窓から見える城は、小じんまりとした城に見えていました。実際に城内に入るまでそう思っていました。城内で見上げる天守はやはり大きい。その天守からは相模湾、箱根山と一望でき、その昔江戸防衛の要の城となっていたこともうなづけます。
 歴史に弱い私ですが、豊臣秀吉と”小田原評定”の話は昔歴史の授業で習った記憶が鮮明に残っている。それがこの地であることを思うと、昔の色々なことが思い出されてきます。
 現在小田原市では、復元工事を行っていますが、時間がかかってもいい。じっくりとしまう。江戸末期の姿を復元してもらいたい。楽しみにしています。  
(2008.3.30)
 


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