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     日本の城に登る・城を歩く
   

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(変更 2022.11.23) 
  

 現在は舞鶴公園の ”甲府城 (舞鶴城)”
 
 甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった城です。別名、舞鶴城(まいづるじょう)。山梨県史跡に指定されています。現在は、鶴舞公園として整備され、鍛冶曲輪四足門・内松陰門・稲荷門の3城門と白壁の障壁が復元され、更に甲府駅側にある稲荷曲輪にあった二層の稲荷櫓が復元されています(ウィキペディアより)
 
内松陰門
 
日本100名城に選定
 甲府城は、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(25番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。ウィキペディアより

     稲荷曲輪門(いなりくるわもん)
内松陰門(うちまつかげもん)
 内松陰門は、屋形曲輪(やがたくるわ)と二の丸をつなぐ門です。明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成11年に復元されました現地案内板より
鍛冶曲輪門(かじくるわもん) 坂下門跡
 
 

 豊臣秀吉の命により築城 ”甲府城”
 
  武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれています。かつては20haほどの広大な城郭でした。
 現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されています。甲府市観光ガイドHPより
 
 

 ”天守台” と ”本丸跡”
本丸跡 天守台
 
甲府城の築城 
 甲府城は約400年前、豊臣秀吉の命で築城が始まり、浅井長政・幸長父子らが完成させた。江戸時代には将軍家から厚い信頼を得た柳沢吉保が、城主を務めた1705年から約20年の間に石垣や殿舎などの大修築が行われた。ウィキペディアより
  
  徳川家康は、甲斐国を「江戸の西の要」として重要視し、徳川領としました。そして徳川将軍家一門を歴代の甲府城主として統治しました。享保9年(1724)以降は幕府直轄地となり、城は「甲府勤番」支配によって明治に至りました。(ウィキペディアより)

 
 復元された ”伊稲荷櫓”
 
 伊稲荷櫓は、城内の鬼門(北東)に位置することから艮(うしとら)櫓とも呼ばれていました。稲荷櫓は江戸時代には武具蔵として使用され、この櫓も明治初期まで残っていたとのことです。発掘調査では二度建て直した跡が確認されたほか、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が六点見つかっているとのことです。(So-net甲府城A:俺の城より)
伊稲荷櫓の再建
 伊稲荷櫓は、平成十六年に絵図や史料をもとに再建されました。このとき石垣も積み直されています。現在稲荷櫓内は甲府城の資料館になっています。ここでパンフレットなど入手できます。

     
 

 甲府城の400年の石垣
 穴太積みによる石垣   
 甲府城跡の石垣の多くは築城期、すなわち慶長5年までに「穴太積み」の技法で積み上げられたことがわかってきました。この石垣は同じ頃に普請が行われた秀吉の大阪城の石垣(野面積みの技法)とよく似ているといわれています。このような石垣を城郭づくりに取り込んだ本格的な第1号は織田信長の安土城だといわれています。 それが秀吉にも受け継がれ、その流れのなかで甲府城の石垣が誕生しました皆川いわおHP 甲府城の発掘調査り
 
本丸北面石垣直下 暗渠(あんきょ)
 

 城郭より、富士山を望む    
 
  1990年から開始された甲府城の発掘調査は、多くの新しい事実をもたらしました。その第一は、従来比較的なだらかと思われてきた一条小山の地が、実際は山あり、谷ありで起伏に富み、予想以上に大規模な造成工事によつて築城の基礎固めがおこなわれていたこと、天主台は石積みと盛り土によつて構築され自然地形を利用したものではないこと、天主台直下の人質曲輪から大量の金箔瓦が発見されたことなど、甲府城の歴史を解明するうえでの重要な成果がいくつも得られています。皆川いわおHP 甲府城の発掘調査り

甲府城の天守閣   



 現在出土している金箔の鯱瓦や飾り瓦はその頃の物であり、これが証拠となって永い間存在しないと言われた甲府城の天守閣も、県立考古博物館長で明治大学名誉教授の大塚初重先生の「存在説」が有力となり、今や通説となっています。皆川いわおHP 甲府城の発掘調査り
銅門跡
  
 甲府城の発掘調査で、特に関係者を驚かせたことは、桃山期の作風と推定される顔に朱と金箔が施された風神または雷神らしき鬼瓦、魔除けのための獅子をかたどった瓦、さらには豊臣家の家紋である五三の桐を付した鬼板瓦や、浅野家の家紋である違い鷹の羽の軒丸瓦など、甲府城の初期建造物の華麗な姿を彷彿させるものが続々と見つかったことであります。皆川いわおHP 甲府城の発掘調査り
 

 ”甲府城(舞鶴城)”  案内
  
 明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。甲府市観光ガイドHPより
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Yahho!地図より ■Zoom ■Zoom
 
後 記
 
 山梨といえば、武田信玄というイメージが強いために信玄に関係の無い甲府城は今一つ伝わるものが無かった。戦国時代の勝者と敗者、新府城と比べ、城跡としての現有の姿にも雲泥の差があると思いました。
 城址はJRで分断されていますが、当時の大きさが伝わってきます。現在再建が進められていますが、明治時代まであったという雄姿を早く見たいものです。

 
























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