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  日本の城に登る・歩く
 
    ( 日 本 百 名 城 )
  
  
    
[画像]  三重県伊賀上野市 ”伊賀上野城(47)” を訪れる
  
  
  
  
  
  


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  ”伊賀上野城” に登城する
 
 伊賀上野城
 (いがうえのじょう)
 日本百名城 No.47
 三重県伊賀市上野丸之内
 (上野公園)
 (撮影 2013.05.25)
 上野城(うえのじょう)は、三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった平山城です。白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれています。
 長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ約30メートルの石垣や三重県立上野高等学校敷地内に武庫蔵が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存します。
 現在、天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城といいます。   
(ウィキペディアより)
(Size : 1,707KB) 
伊賀上野城、天守を望む 30mの高石垣より濠を望む
 



 
 伊賀上野城 ”東大手門” より登城する
 

 【伊賀上野城の築城】

 伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184メートルほどの丘に建てられた平山城です。北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にありました。

 織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築きました。その後天正13年(1585年) に筒井定次によって改修を受け、慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張しましたが、大坂の役によって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のままとなっています。  
(ウィキペディアより)

 
■ 伊賀上野城、東大手門より入城する ■
 
 
 伊賀上野城、東大手門を望む 上野城、石碑を望む
 
 伊賀上野城 ”天守” を望む
 
■ 伊賀上野城天守(模擬)を望む ■
  
  
伊賀上野城天守(模擬)を望む(1) 伊賀上野城天守(模擬)を望む(2)
  
 
 伊賀上野城 ”30m大石垣” を望む
   
■ 伊賀上野城、本丸跡より”高石垣”を望む ■
  
  
伊賀上野城、本丸跡より高石垣及び濠を望む 川端康成さんの歌碑を望む
 
 伊賀上野城 ”筒井古城本丸跡” を望む
 
【正式名称 伊賀文化産業城】

 伊賀上野城の天守の正式名称は伊賀文化産業城(いがぶんかさんぎょうじょう)といいます。伊賀上野城跡に衆議院議員であった川崎克が私財を投じて建てた模擬天守であります。川崎の「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」との理想をもとに、「伊賀文化産業城」と命名されました。

昭和7年(1932年)10月14日地鎮祭を執行、工事に着手、翌年11月19日の棟上式、昭和10年(1935年)10月18日に完成しました。   
(ウィキペディアより)

 
■ 筒井古城本丸跡の石垣を進む■
  
伊賀上野城、城代役所曲輪跡より天守を望む 伊賀上野城、城代役所曲輪跡を望む
 
伊賀上野城、筒井古城本丸跡を望む 筒井古城本丸跡より天守を望む 筒井古城本丸跡の石垣です(左側) 筒井古城本丸跡より、石垣を望む
  
 
 伊賀上野城、天守からの眺望
  
■ 天守より、北方面を望む(正面JR伊賀上野駅、左後方INAX) ■
   
筒井古城跡より天守を望む
   
天守三階の格天井に描かれた著名人(横山大観や河合玉堂)の墨書と絵です 伊賀上野城、鯱を見る
  
  
伊賀上野城、天守1階にありました 天守内にある、藤堂高虎像です 天守2階の様子です 天守3階に飾られている「川崎 克」像です
伊賀上野城、天守入口の石段です 伊賀上野城、拝観券売り場を望む 伊賀上野城、天守入口より外側を望む 伊賀上野城、天守より望む
  
 ”伊賀上野城下” 案内
  
【日本百名城 伊賀上野城の歴史】

 伊賀上野城は、徳川家康の命により、藤堂高虎が伊賀国に入国し改修した。大坂城への対抗と、大和国、紀伊国を抑えるため。慶長16年(1611年)正月より、伊賀上野城を大幅な改修に着手した。特に大坂方に対抗するために西方面の防御に力をそそいだ、高石垣の規模の大きさが物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、新規に5層天守を建設した。東西十三間、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。天守閣の建設は五人の大工棟梁の分担工事とし、互いを競わすなどされていたが、完成をひかえた慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊した。

 1614年(慶長19年)、1615年(元和元年)大坂の役で徳川家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸に櫓は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓がニ棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、また長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。藤堂高虎は大坂の役が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、伊賀上野城を支城とした。

 一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、藤堂高清の死後は藤堂元則が城代となり、1825年(文政8年)藤堂高猷が最後の城主となるまで世襲した。  
(ウィキペディアより)

  
■ 伊賀上野城下、近鉄 上野市駅の風景です ■
   
上野市駅前の風景です 上野市駅前にあります 芭蕉翁像 です
 

 【俳聖殿 国指定重要文化財(建造物)   −現地案内板より−

 松尾芭蕉の生誕三百年を記念して昭和十七年(1942)に建てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺きである。
 外観は、芭蕉の旅姿を建築に表そうとした建立の発意者川崎克氏の着想を、伊東忠太博士の指導により極めてまれにみる和風建築としてまとめたものである。
 上層の屋根は、芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、堂は脚部に、廻廊の柱は杖と脚を表現する。堂内には、芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。これは長谷川栄作氏の原像をもって川崎克氏が製作したものである。
                                           (平成二十二年十二月二十四日指定)
                                            伊賀市教育委員会


 伊賀上野城から俳聖殿に続く道です 俳聖殿への入口です。
茅葺の重厚感のある門です。
 国指定重要文化財、俳聖殿を望む 現地の案内板です。内容は上記のとおりです。
 
  
  
Yahoo!地図より Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示) Yahoo!地図より(■カーソルセットで写真表示)
  
  
           
後   記   
 伊賀上野へは、若いころ出張で訪れたり、奈良へ車で出かけたりと近くまでは来ましたが、なかなかチャンスが無く訪れることはありませんでした。今回やっと登城することができました。伊賀上野城は日本一とうたわれた高石垣と昭和の時代個人で建設した天守に興味がありました。

 高石垣は、まずは本丸から見てみました。安全柵などはなく、角度、高さは足元から切れたった崖のような感じでした。また濠から見た石垣はどっしりと威圧感があり美しさを備えた石垣で有りました。
 天守は木造の良さが出て、廊下、手すりなどの板張りがピカピカに磨かれ年季が入り、江戸の昔からある天守のような存在感が有りました。
 今度は、秋とか季節を変えてきて見たいと思いました。  
(2013/9/30)

 
伊賀上野城の見事な石垣です
 


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