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   ( 日本:明治日本の産業革命遺産 )
  
  
 
第1集  世界文化遺産 明治日本の産業革命遺産 山口県萩市 萩城下町(2) ”高杉晋作誕生地” を訪れる
  



萩城城下町、高杉晋作誕生地にて
  
  
  
 
 


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世界文化遺産登録 ”明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業”


(世界遺産(19) 2015年7月登録)



 1850年代から1910年にかけて日本の重工業化に貢献した遺産群で、「軍艦島」として知られる長崎市の端島炭鉱をはじめ、九州の鹿児島県から東北の岩手県にかけて点在する23資産が、
幕末期の西洋技術の導入や、その後の国家主導で発展させてきた鉄鋼・製鉄、造船、石炭産業の近代工業化の過程を示す資産として顕著な普遍的価値を有していると評価され、新規登録の運びとなりました。

もともと日本政府は「明治日本の産業革命遺産」という名称で推薦していましたが、名称は変更されて登録されました。今回の新規登録で、日本の世界遺産登録数は19件となります。


明治日本の産業革命遺産 構成遺産リスト
 
  萩(山口県)
       1. 萩反射炉
       2. 大板山たたら製鉄遺跡
       3. 恵美須ヶ鼻造船所跡
       4. 松下村塾
      ●5. 萩城下町
  鹿児島
       6-1. 旧集成館
       6-2. 旧集成館機械工場
       6-3. 旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
       7. 寺山炭窯跡
       8. 関吉の疏水溝
  韮山(静岡県)
       9. 韮山反射炉
  釜石(岩手県)
       10. 橋野高炉跡及び関連遺跡
  佐賀
       11. 三重津海軍所跡
  長崎
       12. 三菱長崎造船所 小菅修船場跡
       13. 三菱長崎造船所 第三船渠
       14. 三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン
       15. 三菱長崎造船所 旧木型場
       16. 三菱長崎造船所 占勝閣
       17. 高島炭坑
       18. 端島炭坑(軍艦島)
       19. 旧グラバー住宅
  三池(福岡県・熊本県)
       20-1. 三池港
       20-2. 三池炭鉱 宮原坑
       20-3. 三池炭鉱 万田坑
       20-4. 三池炭鉱専用鉄道敷跡)
       21. 三角西(旧)港
  八幡(福岡県)
       22-1. 官営八幡製鐵所 旧本事務所
       22-2. 官営八幡製鐵所 修繕工場
       22-3. 官営八幡製鐵所 旧鍛冶工場
       23. 官営八幡製鐵所 遠賀川水源地ポンプ室

       (文化庁 HPより)


 1.明治日本の産業革命遺遺産 山口県 萩城城下町 ”高杉晋作誕生地” を訪れる
  高杉晋作誕生地 (高杉晋作旧宅)
 (たかすぎしんさく たんじょうち) 
 世界文化遺産
 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として
 2015年7月登録
 山口県 萩市南古萩町
 (撮影 2013.04.28)
 (作成 2022.02.12)

 幕末の風雲児、高杉晋作の誕生地は山口県萩市南古萩町にあります。旧宅は国指定史跡・萩城城下町に残る武家屋敷の一つとして南側半分が公開されており、産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑・手紙などが展示されています。

 晋作は、天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれました。藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。
文久2年(1862)、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3年(1863)に身分を問わない我が国初の軍事組織“奇兵隊”を結成しました。討幕戦を勝利へと導きましたが、胸の病が悪化し、下関・吉田(現:東行庵)に隠居。慶応3年(1867) 結核のため、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。

 墓所は山口県下関市吉田の東行庵にある。2016年4月に晋作の生前の遺言を刻んだ「墓誌碑」が建立された。
また木戸孝允・大村益次郎らによって東京招魂社(現在の靖国神社)に吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちとともに祀られています。
     (ウィキペディア・全国観るなびより)


(Size : 30,025KB) 高杉晋作誕生地を望む 高杉晋作旧宅にて
  





 2.萩城城下町 ”高杉晋作誕生地” を訪れる




萩市、萩城城下町にて



萩城城下町、菊屋横町入口にて



高杉晋作誕生地を望む


高杉晋作誕生地碑にて 高杉晋作誕生地にて、門より旧宅を望む
< 高杉晋作と奇兵隊について > 
 奇兵隊は長州藩士・高杉晋作の提案で1863年6月に創設された常備軍です。下関戦争で外国艦隊にあえなく敗れた長州藩は一転して危機を迎えます。高杉晋作が「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」と周布政之助に進言すると、長州藩主・毛利敬親の許可が出て、下関防備を命じられました。奇兵隊は吉田松陰の草莽崛起と言う考え方に基づき、志願制であり、武士だけでなく、農民、町人、漁師、猟師、穢多、神官、力士、僧侶など身分を問わず、義勇軍的な組織となりました。
 農民の軍隊と言うイメージがありますが、実際には武士出身者が約50%、農民出身者が約40%と言う構成になっています。奇兵隊は長州藩の正規軍に組み込まれ、最盛期640名の奇兵隊は第一次長州征伐や、鳥羽・伏見の戦いなどで活躍しました。

(奇兵隊の強さの理由)
 騎兵隊の特筆すべきは、その戦術に西洋式の散兵戦術を用いたことにあります。それまでの日本の戦い方は、密集陣形を組んで指揮官が指揮する方法でした。兵の逃亡を防止する効果もありました。しかし、銃火器が発達した幕末では、一箇所に密集しているところを鉄砲や大砲での攻撃を受けると、まとまって被害をうけると言う不利な点も生じていたため、奇兵隊は下記のような散兵戦術を駆使した。
 ・兵の1人1人を信用した上で、指揮官の指示が届かなくても1人で判断して戦えるように訓練した
 ・鎧などまとわない軽装として、機動力を重視した
   ⇒1分間に180歩も進める機動力にて、散開して敵陣に突撃できる軍隊とした
 ・猛訓練が必要だが、隊長が倒れても、代わりの者が隊を率いて、戦闘が継続できるようにした
 ・奇兵隊の隊士には、軍事訓練だけでなく「教養」も教育した
   ⇒自分で命令書を書く事ができるように、砲術だけでなく、孟子などの教育も行った
 ・精励した者は、農民でも本隊に入れると言う「出世制度」も導入した
                            
(人物事典風雲伝HPより)



高杉晋作旧宅、門にて
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高杉晋作誕生地にて 高杉晋作旧宅です 高杉晋作旧宅にて 旧宅にて、敷地内から玄関の方向を望む
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高杉晋作旧宅の入場券売り場です



googleマップからの画像です。googleマップからコピーしました
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高杉晋作誕生地にて



高杉晋作旧宅にて



「萩城城下町」のマップです
「円政寺」は江戸屋横丁にあります。
(赤丸印)の所です 
 





 3.萩城城下町 ”高杉晋作誕生地”(1) にて 



高杉晋作旧宅にて、高杉晋作の句碑です

『西へ行く人をしたひて東行く 心の底そ神や知るらむ』 (文久3年(1863)3月16日、京都で詠んだ歌)
(西行法師を慕って頭を丸めたけれども自分の心は逆に東へ行くのだその心は神だけが知っているだろう)




高杉晋作の旧宅は、6畳の座敷、6畳・4畳・5畳の居間、3畳の小室、そして玄関と台所となっています



「座敷」を望む



高杉晋作の肖像画が飾られています。
座敷には、上がることはできません
 4.萩城城下町 ”高杉晋作誕生地”(2) にて 



高杉晋作旧宅の庭です



旧宅の座敷には高杉晋作の肖像画をはじめ色々な物が展示されています



旧宅の軒下には、高杉晋作の誕生からの成長過程を表した絵と説明文や手紙がが展示されています



旧宅軒下の高杉晋作、成長過程の絵と説明文のアップです



旧宅軒下の高杉晋作、成長過程の絵と説明文のアップです。1867年(慶応3)年4月14日29歳での死亡で終わっています
   





 5.萩城城下町 ”高杉晋作誕生地”(3) にて 



旧宅の庭にて、沢山の観光客です



旧宅の庭にて、沢山の観光客です



実際に使用したとされる産湯の井戸(「初湯の井戸」)です



旧宅にあります、「東行先生誕生之地碑」です



旧宅に入って左側にあります、「高杉晋作略伝」の説明板です
 、
 6.萩城城下町 ”高杉晋作立志像” にて



「高杉晋作立志像」、「晋作広場」の入口です



「晋作広場」を望む



「高杉晋作立志像」前での記念撮影です
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銅像は、松下村塾に通っていた20歳頃の高杉晋作がモデルです。銅像の高さは1.8m、台座を含めると3mとのことです
「高杉晋作立志像」の製作は、彫刻家の江里敏明氏です
 





 7.”萩城城下町” にて (1)



萩城城下町にて



萩城城下町にて



萩城城下町にて、「三好陶苑」です
     【 後  記 】

  高杉晋作は、子供のころ時代劇の中で、西洋の兵隊の洋服を着た奇兵隊員を引き連れ馬に乗って行進する姿や大砲の中で躍動するシーンは強烈に覚えています。

 高杉晋作の生家については、武家屋敷の門構えから当時としては裕福な家庭であったと感じました。旧宅の展示コーナーの高杉晋作の誕生から死亡までの素朴な絵が高杉晋作の成長を良く表していて、大切に育てられたのだと思いました。
 また、すぐ近所からは、日本を代表する政治家の木戸孝允、田中義一、蘭方医の青木 周弼など出ています。萩のこの狭い地域では、何か偉人の育つ環境があるのかと思いました。
 なお、高杉晋作の奇兵隊は、萩出身の吉田松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)」と言う考え方に基づき造られたとのことです。ここにも吉田松陰の教えが反映されていました。
                                   (2022.02.11)

 ※草莽崛起(そうもうくっき)
  志を持った在野の人々が一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げようとすることを意味する語。江戸時代末期に、吉田松陰が民衆主体の改革を望んで唱えた思想として知られる。 (weblio辞書より)





萩城城下町にて



萩城城下町にて
 8.”萩城城下町” にて (2)



萩城城下町にて、萩焼窯元直売店「大田陶苑」です



萩城城下町にて、萩焼のお店は結構見かけます



萩城城下町にて



萩城城下町にて、古美術・古民芸「長州堂」です
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  お気に入り写真 



萩城城下町、高須晋作誕生地にて



萩城城下町、高須晋作誕生地にて



高須晋作誕生地の座敷にて、高杉晋作の肖像画です



萩城城下町、高須晋作誕生地には沢山の観光客が訪れていました





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